吉祥寺JazzSyndicate

 吉祥寺ジャズシンジケートは、東京、吉祥寺の某Barに集まるJazzファンのゆるーいコミュニティです。  コンテンポラリーJazzを中心に、音楽、アート、アニメ、カフェ、バー、面白グッズ、などなど、わがままに、気まぐれに、無責任に発信します。

コンテンポラリーな日々

【コンテンポラリーな日々】No.10 ~廃墟とコンテンポラリー・ジャズ Part.1~


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廃墟を美しいと感じるのは、廃墟に対する思考の逆説ではなく、意識の倒錯に近いものであろう
by S.I.  



 廃墟とコンテンポラリー・ジャズ。


 壮大なこじつけをしようたくらんでいるわけではありませんが、まァ、辛気臭い屁理屈になってしまう危険性も感じながら、語ってみたいと思います。

 私は廃墟ファンです。ここで廃墟論を展開しようとしたらあまりに長くなってしまうでしょうし、本が一冊書けてしまうかもしれませんので、それは控えましょう。


私が良く考えるのは、「なぜ自分はこれほど廃墟に魅かれるのか」です。実は明確な結論があるわけではありません。


 いろいろな語り口があるのですが、その廃墟の魅力のひとつとして、廃墟の存在は、それ自体が不条理であり、社会の矛盾そのものだ、ということです。


 先日たまたま「奈良ドリームランド」のニュースを目にしたのです。この遊園地は1961年に開園したそうですが、時代の変遷ととも、2006年には閉園になり、そのまま放置され、廃墟の仲間入りしたわけです。


 例えば人里離れた炭鉱の廃墟や「軍艦島」のように離島ならあまり大問題にはならないでしょうが、奈良ドリームランドの場合はその近くに実際に人々の生活があるのです。現在でも奈良ドームランド前というバス停があるようです。


 この廃墟の中は落書きが目立ち、カラスの楽園になっている風体でもある。ということは、不審者の巣窟になっている可能性もあり、近くに住む、特に小さなお子さんを持つ親にとっては、大きな心配の種だろうと思います。街の生態系や環境にも少なからず影響があると思います。

一度は奈良市がこの敷地の一部に火葬場を建設しようと計画したようですが、住民の反対運動で、結局頓挫してしまったとのこと。


 ニュースによると、奈良市はここを公売にかけ、再開発をしてくれる業者を募集したのですが、一社も名乗りを上げなかったようです。入札の金額が高いのか私には分かりませんが、入札した業者は園内のアトクションなどから全て撤去しなくてはならないのが条件のようですので、いずれにしろ膨大な予算が必要でしょうし、簡単には引き取り手は見つからないかもしれません。


 つまり、廃墟はまだ「生き続けている」ということです。


 廃墟は、人々の管理を離れ、放置され、侵食され、喧騒から遠いところでひっそりと死んだようにたたずんでいるだけ、と思いがちですが、特にこの奈良ドリームランドのように人間の生活がそばにあるとなると、様々な問題をかかえながら存在している。


 実を云うと、人里離れた廃墟や離島でも、いろいろな問題を抱えているのではないかと容易に推察できます。つまり私が云いたいのは、廃墟の存在そのものが矛盾であり、「在ってはならない」ものなのです。


 先述したように私は廃墟ファンなのですが、本当はそんなことを云うべきではないのか。廃墟好きなんてことは、仲の良い友人や家族にさえ云うべきでなく、じっと押し黙って、ただ遠くから眺めて心の中で楽しんでいるだけにすべきなのかもしれません。廃墟好きであることを自覚しながらも、その存在そのものを喜んで肯定するわけには行かないのです。


 日本は世界的にみればむろん経済大国、技術もトップクラスで比較的インフラも充実しているはずですが、こんな我が国でも廃墟は数多く存在します。
つまりは日本でも、先進国と呼ばれる国々でも、多くの矛盾と不条理が交錯し、絶望的な状況が社会のあちこちに点在してるのだ、ということ。廃墟はそのことを教えてくれる手掛かりの一つだと思うのです。

 実は、私が廃墟に魅力を感じる理由として、そのことがあると思えてならないのです。廃墟は単に見捨てられた無機物というだけではなく、ちょっと大げさに云うなら、現在の不完全な人間社会が生み出したひとつの結論でもあるということなのかもしれません。


 さて、あまりに長くなってしまったのですが、それがなぜ、コンテンポラリー・ジャズと関係があるのか。ひとつだけ云うなら、双方とも、矛盾を孕んだ存在であると思えてならないということです。


 続きはPart.2で語らせていただければと思います。



si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】N0.9 ~ジャズ喫茶と街のレコード屋さん~


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観光地として認知された廃墟は、すでに廃墟ではない。
by S.I. 



 今から約40年前、私が大学入学のため東京に来て一番嬉しかったのは、晴れてジャズ喫茶に出入りできるようになったことだったなァ。

 高校生のときにも地元の隣町のジャズ喫茶に何度か行ったことがあるけど、ドキドキもの。知り合いの人に出くわしたりして親にでも云われたら、ちょっと厄介なことになる。

 私が初めて東京に住んだのは駅からはだいぶ離れていたけど、高円寺で、結構な件数のジャズ喫茶があった。数年前たまたま高円寺のその界隈に行く機会があったので、私は懐かしさも手伝って、そのあたりを徘徊してみたのだけど、当時の店はひとつも見当たらなかった。

 
 まァ、40年近く経てば、ほとんど無くなるだろうけど、それらしい店も無く、風俗店が目立つばかりで、雰囲気も様変わりしていまして、客引きに腕でもつかまれそうだったのでそそくさと退散しました。

 
 当時のジャズ喫茶は、その大部分がいわゆるレコード喫茶。客はほとんどがコーヒーを注文し、かなり爆音で大型のスピーカーからジャズを流す。もちろんまだCDの無い時代だから、レコードのジャケットが掲げられA面かB面の表示が出ていた。

 
 客同士の会話はほとんど無く、「会話禁止」なんていう張り紙のある店もあった。お客さんは、コーヒーをすすりながら、ただひたすらスピーカーから流れ出る音に耳を傾けていたわけです。それでもけっこう入る時はわくわくしたし、楽しかったし、いろいろな発見もあった。

 
 お酒や食事をしながらマスターとジャズ談義をする店なんて、当時は行ったことがなかった。あるいは、そんな店もあったのかもしれないけど、当時の私はそんな楽しみ方の出来るほど大人ではなかった。

 
 ただひたすら音を聴いていたレコード喫茶でも、そこで得た情報や知識はかなり大きなものだったと思います。そこで聴いて気に入ったレコードを買ったものも、たくさんあったのは云うまでもありません。

 それから当時、街にはジャズ専門の小さなレコード店がけっこうありました。6畳ほどの小さなスペースの壁にびっしりレコードが並び、ぽつんと店主のおじさんが一人すわっている。そんな愛すべき店が、私たちジャズ好きの憩いの場でもあり大切なスペースでした。

 
 そんな店主のおじさんは、最初はちょっと怖かったけど、「これ下さい・・・」とか云ってレコードを差し出すと、「オー、これか、中々いいアルバムだよ」とか云って、ちょっとした解説をしてくれたり、関連する情報や逸話なんかも教えてくれたりした。

 そんな方々は、まだジャスファンになりたての若者にとっては敬愛すべき師匠でもあったし、絶好のナビゲーターでもあったと思います。

 
 よくよく考えると、当時は、わずかコーヒー一杯で何時間もねばる客ばかりでも、ジャズ喫茶の経営は充分成り立っていたのでしょう。それからジャズのみのレコードを小さなスペースで売るお店でも生計が立てられたのでしょうね。もちろん詳しい内情は良く分かりませんが、あの当時は都会でも少なくとも現在よりはかなり牧歌的でのんびりしていたのかもしれません。

 
 ジャズ喫茶や街の小さなレコード屋さんは、明らかに日本にとってのひとつの文化だったと思うのです。私たちジャズファンにとって古き良き昭和の一時代であったのかもしれない。

 
 大学を卒業し社会人になってから、ほとんど足の遠のいてしまったそんな店々も、気がついてみたら、ほとんど壊滅状態といってもいい惨状かもしれません。思えば私が大学生だった頃がそんなジャズ喫茶なんかの最盛期でもあり、もう既に衰退は始まっていたのかもしれません。

 
 あの頃のジャズ喫茶のマスターやレコード店の店主に感じたのは、「ホントーにジャズが好きなんなァ・・・」ということでした。あの方々は、まだお元気でしょうか、そして今でもジャズを心から愛しているのでしょうか・・・?

 
 さらに、ふと下の世代に目を転じると、現在の若者たちはジャズに興味を持ったとき、どんな方法で知識や情報を仕入れてゆくのだろうか、と思って、ちょっぴり心配になってしまいます。

 
 You-Tubeや専門のWebSiteなどネットで情報収集をするのか、細分化されたラジオか、雑誌なのか。レコードやCDを買うのではなく、ほとんどダウンロードなのか。だとするなら、少々味気ない気はしますが、それは私の世代の郷愁なのかもしれません。

 
 たとえ文化としては滅びても、当時の雰囲気を持ったジャズ喫茶やレコード(CD)屋さんが、ごくこくわずかでも残っていてくれればと願わずにはいられません。

 
 時が経つほどにジャズの歴史は長くなり、それだけ音源も豊富で、様々なタイプのジャズが生まれ、ますます複雑になっているし、おもしろくもなってると思います。そんなジャズを語り伝えるのは評論家とか専門の方でもいいけど、ジャズ喫茶やレコード屋のおじさんのような普通のジャズ好きであって欲しい気がするのです。

 なぜなら、あれから何十年も経った今、私のジャズの知識や趣向の源は、彼らであったと実感します。彼らはレコード会社やレーベルその他とは、一切利害関係が無かったから・・・なんて想像するのは、ちょっと考え過ぎでしょうか・・・?

si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.8 ~競演か? 創作か?~


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廃墟を保存することは、もっとも醜い逆説である
by S.I



 モダン・ジャズの演奏のスタイルは、なによりも参加しているミュージシャンたちが、魅力的なソロ(インプロビゼイション/アドリブ)をプレイすかが肝心だ。

 
 例えばサックス、トランペット、プラスピアノトリオの編成だと、まずはサックス等の管楽器が曲のリフを演り、何コーラスかアドリブをする。つぎにトランペットのソロ。続いてピアノのソロ。その後、ベースのソロも続いたりする。それから4バースとか8バースのいわゆるドラムとの掛け合いをプレイしたりする。最後にまた再び曲のリフに戻りエンディング、というわけだ。

 
 ジャス・ファンなら誰でも知っているお決まりのフォーマットだ。ライブ盤のアルバムなんかだと、それぞれのソロが終わるたびに拍手が起き、ヒューヒューと口笛が鳴り響いたりして臨場感もある。これはもう、一種の儀式みたいな感じだ。

 
 私がずっと聴き続けてきたモダン・ジャズは、あくまでも、そのプレイヤーのソロが、いかにエキサイティングで光り輝いているかが、もっとも重要だ。

 
 「名盤」と呼ばれるものは、もちろんそのアルバムに参加したミュージシャン達のまとまりとかバランスと、いろいろあるけど、やっぱりプレイヤー達のソロがいかに素晴らしいかが評価のもっとも重要なポイントだろう。参加したミュージシャンがみんな仲が良く和気藹々としていたかと云うと、必ずしもそうではないなんて話も耳にしたことがある。それでも名演、名盤は出来る。

 
 若い頃、ジャズ仲間でサックスを演っていた友人が、マイルスの50年代の名作スティーミン、とかリラクシンなどのアルバムで、「俺はコルトレーンしか聴いてないんだ、マイルスもレッドガーランドもどうでもいい」なんて言い放っていた。まァ、コルトレーンフリークの彼だから致し方ない発言かもしれない。

 
 さて、一転してコンテポラリー・ジャズはどうかというと、だいぶその様相が変わっているように思える。もちろんプレイヤーのソロの質そのものも、それなりに重要ではあるけど、そのアドリブそのものよりも、参加しているミュージシャン全員でいかなるサウンドを創るか、そして皆でいかにそのアルバムのクオリティを上げるか、つまり演じるというより「創作」しているような気がしてならない。

 
 アルバムの中では殆どソロをとらない演者もいる。でも全体としてはその音が「効いている」場合も少なくない。単なるバッキングというより、いかに全体のサウンドを彩り、創りあげるかが最重要課題である印象が強い。

 
 以前、私がモダンジャズのアルバムを聴いていた際、どうしてもそのお気に入りのミュージシャンのソロそのものに注目してしまいますが、でもコンテンポラリーはソロというより、つまりいかに演じるか、とかいうよりアルバムとしていかに創作するかということこそが問題なのでしょう。

 
 このことは、アルバムのジャケットなんかにも現れている感じがする。モダンのアルバムのジャケットはミュージシャンの顔写真が多かった気がする。イラストでもそれはミュージシャンの顔や楽器をデフォルメしたとかポップな感じが少なくなかった。

 
 でもコンテンポラリーのアルバムは、圧倒的にミュージシャンの写真とかよりアーティステックな風景写真とか、絵だとしても、イラストというより抽象画とか、芸術性を感じさせるような絵画が多く見受けられる。

 
 私が好きなレーベルのひとつであるECMのジャケットは、どんよりとした空とか、荒涼とした大地とか、そんな感じの写真が圧倒的に多い。そしてジャケットから受けるイメージと中身の音は、けっこう同調している。つまり少なくとも何を表現するのか、というテーマ性とか、録音後に出来た作品のイメージをジャケットを通じて伝えようとしている気がするのです。

 
 コンテンポラリー・ジャズは、モダンのように、いかに演じるか、というより全体として何を表現するかが、問われているのではないか。ミュージシャン達は、ソロ・プレイヤーとしての技術や力量よりも、アルバムとしていかなる世界が創造できたかが問われているのではないか。だからジャケットもけっこう重要だと思います。

 
 音楽である以上、そしてそれぞれが楽器を駆使するという点では、もちろんある程度はそのテクニックや力量は問われるだろうが、もっとも肝心なのは、それが具体的なモノであれ文学的なモノであれ、プレイヤー達は、どんな音世界を創り上げるのか、そのことに苦心しているに違いない。

 
 いかに演じるか、ではなく、いかに創作するか、これからのジャズに問われる本質のような気がしてならないのです。少なくとも私にとっては誰がもっとも巧いのかとか、凄いのかではなく、その音世界がいかに心を揺さぶるか、それがもっとも重要なのだと思えるのです。

si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.7 ~「日本人っぽくない」は褒め言葉か?~

 

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欲深く醜い希望と、悲しく美しい絶望。その倒錯を証明する手掛りが廃墟である。
by S.I.
 

 
 そういえば、ミュージシャン同士の会話とか、その演奏への褒め言葉としてよくこんなセリフを耳にしました。

 「日本人っぽくないね」とか「日本人離れしてるね」とか、そんなセリフが、ミュージャンへのある種の褒め言葉として使われていた気がします。今もそうかもしれない。

 
 これって、海外ではどうなんだろうと、思ったりします。例えば、フランス人同士やドイツ人同士でも、こんな会話があるのだろうか。

 
 素晴らしいジャズの演奏に対して「フランス人っぽくないね」とか「ドイツ人離れしてるね」とか云うだろうか・・・? どうも私にはそうは思えないのです。

 
 日本人っぽくないね、みたいなセリフは妙に海外の文化に対し必要以上にありがたがる日本人の特性のような気がしてならないのです。確かにジャズはアメリカが生んだ音楽であり文化ですが。

 
 ところで、こんな話を聞いたことがあります。日本が誇るアニメで、海外の興行収入、つまり版権収益で、第1位が「千と千尋の神隠し」で第3位が「もののけ姫」だそうです。(2位は確かピカチュウだったと思います)

 
 これにはちょっと驚きました。ジブリの作品で云うならば、例えばナウシカとかラピュタのほうが設定も西欧っぽくて、特に欧米人にはウケるのでは、と思うのですが。でも、海外でウケているのはきわめて日本っぽい色合いの作品なんですね。果たして欧米人に「八百万の神」とか「しし神」とか分かるのかな、なんて思うわけです。

 
 まァ、理解できるかどうかは別として、それは海外の人々にとってエキゾチズムを感じるのかもしれません。結局もっともウケているのは日本っぽいものなんですね。

 
 こんな話も聞いたことがあります。日本でもそこそこ有名なジャズピアニストがドイツのジャズフェッシバルで大変な喝采を浴びているということで、毎年のように呼ばれて参加しているようです。私としては、正直なところ「なんであのピアニストがヨーロッパでそんなにウケるのかな」とちょっと首をかしげてしまいました。

 
 でも、ある方の意見では、彼のピアノはけっこう日本人っぽくて、ちょっと悪口っぽく云うなら、演歌っぽい。その何というか「日本人特有のぎこちなさ」みたいな感じが返って欧米人にはエキゾチックな印象を与え、ウケているんじゃないかとのことです。

 
 その真偽はともかく、私としては、それはそれでいいじゃないか、と思います。その「日本人っぽさ」は、それこそ欧米人には真似の出来ないことでしょうから。

 
 さて、これは私にとってちょっとお恥ずかしい話なのですが正直に告白します。もう10年以上前の事なんですが、年末何気なく紅白歌合戦を観ていたら、由紀さおりさんの姉妹が登場して、童謡の「赤とんぼ」を唄い始めたのです。

 
 唄い始めてから30秒ほどで私は不覚にも涙が溢れてきました。唄い終わるころは涙で画面が見えなくなるくらいでした。自分でもあの時何が起きたのか良く分からなかったのです。それまで流れていた流行りの曲は半ば嘲笑しながら聴いていたのに・・・

 
 「私もやはり日本人なんだ」というセリフはともかく、あの時、私の心の中の琴線に触れたのだと思います。子供の頃耳にしていたシンプルなあのメロディが、ずっと長い間ジャズファンだった私の血の中にある何者かを呼び起こしたのかもしれません。由紀さおりさん姉妹の歌唱力も関係していたでしょうね。

 
 昨今はユーチューブのおかげで様々な類の音楽に手軽に触れることができます。日本民謡で検索すると、日本各地の民謡やらがたくさん視聴でき、日本には全国各地にこんに様々な民謡があるんだな、と驚かされます。

 
 私たちには、これほど豊富な民族性あふれる旋律やリズムがあるのですね。それが滅びる途上にあるのか、細々とではあるけど脈々と受け継がれているのはよくわかりません。

 
 日本の若いミュージシャンたちは、もっとこの日本古来の音楽に注目し、追求し、それを自分の表現に巧みに取り込むようにしたらどうだろうと私は思うのです。日本人はまだそれを完全には失っていないはずですから。

 
 ジャズはアメリカで生まれたのは間違いないのですが、昨今は世界中のミュージシャンたちがそれぞれの民族性を顕わにしたバラエティ豊かなサウンドを続々と生み出しているのです。

 
 近いうち、日本のミュージシャンの中から、我々日本人の魂を揺さぶるようなきわめて「日本的」なコンテンポラリー・ジャズが生まれてこないか、私はひそかに期待しています。

 
 そして、そのほうが実際には海外の人々に受け入れられ、より多くの人々に聴かれるようになるのではないかと思えてならないのです。

 
 いい加減、グローバル・スタンダードという名の、アメリカン・スタンダードとはそろそろ決別しようではありませんか。


si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.6 ~BluesとEuropean Contemporary~


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廃墟がなぜ美しいかを語ることは、

壮絶な最期を迎えた人の死の美学を語るのに等しい。
By S.I.



 昔読んだ本で、こんなジャズ論、音楽論がありました。

 
 ジャズを生んだのは、もちろんアメリカだけど、それはアメリカ大陸に渡った多くの移民、主にヨーロッパ人達が持ち込んだクラッシクや民謡、それと奴隷として連れて来られた黒人たちのブルースやリズムがぶつかり合い、融合し、様々な化学反応を起こして勃興した。

 
 それが、やがてはロックやポップスなどにもつながり、世界中にばら撒かれ、多くの国々の若者たちの心を捉えた。それは世界中で受け入れられるような構造になっていた。

 
 なぜならアメリカで生まれたこの音楽の源流は、もとはと言えばヨーロッパなど世界中の人々が持ち込んだ民謡などの美しいメロディやクラッシクの理論をベースに作られた。そこに古典にはない黒人達のリズムやブルースが加味された、とのこと。だから世界中の人々の琴線に触れるように出来ていたのだと。

 
 アメリカが世界の覇権国になったのは、世界一の経済力、軍事力を持ったことだけではない。アメリカからばら撒かれた音楽、映画、食文化など等が、世界中の若者たちの心を捕え、アメリカ文化に憧れを持つようになったからだ、と。ある意味、壮大な逆輸入かもしれまん。


 私が若い頃、ジャズピアノらしきを習い始めた頃、ブルース・スケールの習得は必須といことなっていました。もちろん今からモダンジャズを始める人達にとっても同様でしょう。

 
 3,6,7度を半音フラットさせるブルース・スケールは一種のモードとも云えるでしょうが、この音を散りばめることによって、よりジャズっぽい艶と響きとスゥイング感が生まる。また、ブルース形式(ブルース・コードで12小節x2)の演奏はモダン・ジャズを志す者にとては必修科目といえるでしょう。

 
 私が憧れたバップ時代のピアニストたちは、皆ブルース・フィーリング溢れるフレーズが光り輝いていました。

 
 ところで私がここ数年、心酔しているヨーロピアン・コンテンポラリーはどうでしょうか。むろんプレイするミュージシャンやアルバムによって差異はありますが、正直云って、あまりブルースは感じられない。ブルーノートを感じるフレーズは、それほど耳に入って来ない。

 
 先述したとうり、ブルース・スケールは一種のモード音階でしょうから、コンテンポラリーにもその要素は含まれているとは思うのですが、モダンに比べると多様なモードを駆使しするコンテンポラリーの演奏では、ブルーノートがさほど際立たない、のかもしれません。

 
 想像するに、ブルースはアメリカに無理やり連れて来られたアフリカ系の黒人達の悲しみや怒り、その他の感情が入り混じったものが根底にあるのでしょう。現在のアメリカ社会がそういった矛盾を完全に解決したとはとても思えませんが、少なくとも半世紀前よりは黒人達がブルースを唄う土壌は多少は清められたのでしょうか・・・?

 
 いずれにしろ、モダン全盛の頃のようなブルース感が中核を占めるような演奏は、相対的に少なくなったような気がしてなりません。そのかわり、独特のモードが、ブルースの代わりの役目を果たしているのかも。それは、ある時はブルースより深く、暗い「闇」のようにも聴こえることがあるのは、私だけでしょうか。

 
 考えてみると、どの民族や国民にとっても、その歴史の中で、深い哀しみの唄や、その表現、節回しがあるように思えてなりません。日本にだって民謡や雅楽のなかにきっとあるのだろうと思います。もしかしたら、演歌の節回しなんかに脈々と受け継がれているのかも。

 
 ヨーロピアン・コンテンポラリーの演者たちは、それぞれの民族性や血の中に流れる、それぞれ彼らなりのブルーノートを持ち、その演奏の中に散りばめているのかもしれません。

 
 きっと全ての民族が、独自のブルース・スケールを持っているのだと思う今日この頃です。

 
si50posted by S.I.
 

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