吉祥寺JazzSyndicate

 吉祥寺ジャズシンジケートは、東京、吉祥寺の某Barに集まるJazzファンのゆるーいコミュニティです。  コンテンポラリーJazzを中心に、音楽、アート、アニメ、カフェ、バー、面白グッズ、などなど、わがままに、気まぐれに、無責任に発信します。

コンテンポラリーな日々

【コンテンポラリーな日々】No.10 ~廃墟とコンテンポラリー・ジャズ Part.1~


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廃墟を美しいと感じるのは、廃墟に対する思考の逆説ではなく、意識の倒錯に近いものであろう
by S.I.  



 廃墟とコンテンポラリー・ジャズ。


 壮大なこじつけをしようたくらんでいるわけではありませんが、まァ、辛気臭い屁理屈になってしまう危険性も感じながら、語ってみたいと思います。

 私は廃墟ファンです。ここで廃墟論を展開しようとしたらあまりに長くなってしまうでしょうし、本が一冊書けてしまうかもしれませんので、それは控えましょう。


私が良く考えるのは、「なぜ自分はこれほど廃墟に魅かれるのか」です。実は明確な結論があるわけではありません。


 いろいろな語り口があるのですが、その廃墟の魅力のひとつとして、廃墟の存在は、それ自体が不条理であり、社会の矛盾そのものだ、ということです。


 先日たまたま「奈良ドリームランド」のニュースを目にしたのです。この遊園地は1961年に開園したそうですが、時代の変遷ととも、2006年には閉園になり、そのまま放置され、廃墟の仲間入りしたわけです。


 例えば人里離れた炭鉱の廃墟や「軍艦島」のように離島ならあまり大問題にはならないでしょうが、奈良ドリームランドの場合はその近くに実際に人々の生活があるのです。現在でも奈良ドームランド前というバス停があるようです。


 この廃墟の中は落書きが目立ち、カラスの楽園になっている風体でもある。ということは、不審者の巣窟になっている可能性もあり、近くに住む、特に小さなお子さんを持つ親にとっては、大きな心配の種だろうと思います。街の生態系や環境にも少なからず影響があると思います。

一度は奈良市がこの敷地の一部に火葬場を建設しようと計画したようですが、住民の反対運動で、結局頓挫してしまったとのこと。


 ニュースによると、奈良市はここを公売にかけ、再開発をしてくれる業者を募集したのですが、一社も名乗りを上げなかったようです。入札の金額が高いのか私には分かりませんが、入札した業者は園内のアトクションなどから全て撤去しなくてはならないのが条件のようですので、いずれにしろ膨大な予算が必要でしょうし、簡単には引き取り手は見つからないかもしれません。


 つまり、廃墟はまだ「生き続けている」ということです。


 廃墟は、人々の管理を離れ、放置され、侵食され、喧騒から遠いところでひっそりと死んだようにたたずんでいるだけ、と思いがちですが、特にこの奈良ドリームランドのように人間の生活がそばにあるとなると、様々な問題をかかえながら存在している。


 実を云うと、人里離れた廃墟や離島でも、いろいろな問題を抱えているのではないかと容易に推察できます。つまり私が云いたいのは、廃墟の存在そのものが矛盾であり、「在ってはならない」ものなのです。


 先述したように私は廃墟ファンなのですが、本当はそんなことを云うべきではないのか。廃墟好きなんてことは、仲の良い友人や家族にさえ云うべきでなく、じっと押し黙って、ただ遠くから眺めて心の中で楽しんでいるだけにすべきなのかもしれません。廃墟好きであることを自覚しながらも、その存在そのものを喜んで肯定するわけには行かないのです。


 日本は世界的にみればむろん経済大国、技術もトップクラスで比較的インフラも充実しているはずですが、こんな我が国でも廃墟は数多く存在します。
つまりは日本でも、先進国と呼ばれる国々でも、多くの矛盾と不条理が交錯し、絶望的な状況が社会のあちこちに点在してるのだ、ということ。廃墟はそのことを教えてくれる手掛かりの一つだと思うのです。

 実は、私が廃墟に魅力を感じる理由として、そのことがあると思えてならないのです。廃墟は単に見捨てられた無機物というだけではなく、ちょっと大げさに云うなら、現在の不完全な人間社会が生み出したひとつの結論でもあるということなのかもしれません。


 さて、あまりに長くなってしまったのですが、それがなぜ、コンテンポラリー・ジャズと関係があるのか。ひとつだけ云うなら、双方とも、矛盾を孕んだ存在であると思えてならないということです。


 続きはPart.2で語らせていただければと思います。



si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】N0.9 ~ジャズ喫茶と街のレコード屋さん~


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観光地として認知された廃墟は、すでに廃墟ではない。
by S.I. 



 今から約40年前、私が大学入学のため東京に来て一番嬉しかったのは、晴れてジャズ喫茶に出入りできるようになったことだったなァ。

 高校生のときにも地元の隣町のジャズ喫茶に何度か行ったことがあるけど、ドキドキもの。知り合いの人に出くわしたりして親にでも云われたら、ちょっと厄介なことになる。

 私が初めて東京に住んだのは駅からはだいぶ離れていたけど、高円寺で、結構な件数のジャズ喫茶があった。数年前たまたま高円寺のその界隈に行く機会があったので、私は懐かしさも手伝って、そのあたりを徘徊してみたのだけど、当時の店はひとつも見当たらなかった。

 
 まァ、40年近く経てば、ほとんど無くなるだろうけど、それらしい店も無く、風俗店が目立つばかりで、雰囲気も様変わりしていまして、客引きに腕でもつかまれそうだったのでそそくさと退散しました。

 
 当時のジャズ喫茶は、その大部分がいわゆるレコード喫茶。客はほとんどがコーヒーを注文し、かなり爆音で大型のスピーカーからジャズを流す。もちろんまだCDの無い時代だから、レコードのジャケットが掲げられA面かB面の表示が出ていた。

 
 客同士の会話はほとんど無く、「会話禁止」なんていう張り紙のある店もあった。お客さんは、コーヒーをすすりながら、ただひたすらスピーカーから流れ出る音に耳を傾けていたわけです。それでもけっこう入る時はわくわくしたし、楽しかったし、いろいろな発見もあった。

 
 お酒や食事をしながらマスターとジャズ談義をする店なんて、当時は行ったことがなかった。あるいは、そんな店もあったのかもしれないけど、当時の私はそんな楽しみ方の出来るほど大人ではなかった。

 
 ただひたすら音を聴いていたレコード喫茶でも、そこで得た情報や知識はかなり大きなものだったと思います。そこで聴いて気に入ったレコードを買ったものも、たくさんあったのは云うまでもありません。

 それから当時、街にはジャズ専門の小さなレコード店がけっこうありました。6畳ほどの小さなスペースの壁にびっしりレコードが並び、ぽつんと店主のおじさんが一人すわっている。そんな愛すべき店が、私たちジャズ好きの憩いの場でもあり大切なスペースでした。

 
 そんな店主のおじさんは、最初はちょっと怖かったけど、「これ下さい・・・」とか云ってレコードを差し出すと、「オー、これか、中々いいアルバムだよ」とか云って、ちょっとした解説をしてくれたり、関連する情報や逸話なんかも教えてくれたりした。

 そんな方々は、まだジャスファンになりたての若者にとっては敬愛すべき師匠でもあったし、絶好のナビゲーターでもあったと思います。

 
 よくよく考えると、当時は、わずかコーヒー一杯で何時間もねばる客ばかりでも、ジャズ喫茶の経営は充分成り立っていたのでしょう。それからジャズのみのレコードを小さなスペースで売るお店でも生計が立てられたのでしょうね。もちろん詳しい内情は良く分かりませんが、あの当時は都会でも少なくとも現在よりはかなり牧歌的でのんびりしていたのかもしれません。

 
 ジャズ喫茶や街の小さなレコード屋さんは、明らかに日本にとってのひとつの文化だったと思うのです。私たちジャズファンにとって古き良き昭和の一時代であったのかもしれない。

 
 大学を卒業し社会人になってから、ほとんど足の遠のいてしまったそんな店々も、気がついてみたら、ほとんど壊滅状態といってもいい惨状かもしれません。思えば私が大学生だった頃がそんなジャズ喫茶なんかの最盛期でもあり、もう既に衰退は始まっていたのかもしれません。

 
 あの頃のジャズ喫茶のマスターやレコード店の店主に感じたのは、「ホントーにジャズが好きなんなァ・・・」ということでした。あの方々は、まだお元気でしょうか、そして今でもジャズを心から愛しているのでしょうか・・・?

 
 さらに、ふと下の世代に目を転じると、現在の若者たちはジャズに興味を持ったとき、どんな方法で知識や情報を仕入れてゆくのだろうか、と思って、ちょっぴり心配になってしまいます。

 
 You-Tubeや専門のWebSiteなどネットで情報収集をするのか、細分化されたラジオか、雑誌なのか。レコードやCDを買うのではなく、ほとんどダウンロードなのか。だとするなら、少々味気ない気はしますが、それは私の世代の郷愁なのかもしれません。

 
 たとえ文化としては滅びても、当時の雰囲気を持ったジャズ喫茶やレコード(CD)屋さんが、ごくこくわずかでも残っていてくれればと願わずにはいられません。

 
 時が経つほどにジャズの歴史は長くなり、それだけ音源も豊富で、様々なタイプのジャズが生まれ、ますます複雑になっているし、おもしろくもなってると思います。そんなジャズを語り伝えるのは評論家とか専門の方でもいいけど、ジャズ喫茶やレコード屋のおじさんのような普通のジャズ好きであって欲しい気がするのです。

 なぜなら、あれから何十年も経った今、私のジャズの知識や趣向の源は、彼らであったと実感します。彼らはレコード会社やレーベルその他とは、一切利害関係が無かったから・・・なんて想像するのは、ちょっと考え過ぎでしょうか・・・?

si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.8 ~競演か? 創作か?~


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廃墟を保存することは、もっとも醜い逆説である
by S.I



 モダン・ジャズの演奏のスタイルは、なによりも参加しているミュージシャンたちが、魅力的なソロ(インプロビゼイション/アドリブ)をプレイすかが肝心だ。

 
 例えばサックス、トランペット、プラスピアノトリオの編成だと、まずはサックス等の管楽器が曲のリフを演り、何コーラスかアドリブをする。つぎにトランペットのソロ。続いてピアノのソロ。その後、ベースのソロも続いたりする。それから4バースとか8バースのいわゆるドラムとの掛け合いをプレイしたりする。最後にまた再び曲のリフに戻りエンディング、というわけだ。

 
 ジャス・ファンなら誰でも知っているお決まりのフォーマットだ。ライブ盤のアルバムなんかだと、それぞれのソロが終わるたびに拍手が起き、ヒューヒューと口笛が鳴り響いたりして臨場感もある。これはもう、一種の儀式みたいな感じだ。

 
 私がずっと聴き続けてきたモダン・ジャズは、あくまでも、そのプレイヤーのソロが、いかにエキサイティングで光り輝いているかが、もっとも重要だ。

 
 「名盤」と呼ばれるものは、もちろんそのアルバムに参加したミュージシャン達のまとまりとかバランスと、いろいろあるけど、やっぱりプレイヤー達のソロがいかに素晴らしいかが評価のもっとも重要なポイントだろう。参加したミュージシャンがみんな仲が良く和気藹々としていたかと云うと、必ずしもそうではないなんて話も耳にしたことがある。それでも名演、名盤は出来る。

 
 若い頃、ジャズ仲間でサックスを演っていた友人が、マイルスの50年代の名作スティーミン、とかリラクシンなどのアルバムで、「俺はコルトレーンしか聴いてないんだ、マイルスもレッドガーランドもどうでもいい」なんて言い放っていた。まァ、コルトレーンフリークの彼だから致し方ない発言かもしれない。

 
 さて、一転してコンテポラリー・ジャズはどうかというと、だいぶその様相が変わっているように思える。もちろんプレイヤーのソロの質そのものも、それなりに重要ではあるけど、そのアドリブそのものよりも、参加しているミュージシャン全員でいかなるサウンドを創るか、そして皆でいかにそのアルバムのクオリティを上げるか、つまり演じるというより「創作」しているような気がしてならない。

 
 アルバムの中では殆どソロをとらない演者もいる。でも全体としてはその音が「効いている」場合も少なくない。単なるバッキングというより、いかに全体のサウンドを彩り、創りあげるかが最重要課題である印象が強い。

 
 以前、私がモダンジャズのアルバムを聴いていた際、どうしてもそのお気に入りのミュージシャンのソロそのものに注目してしまいますが、でもコンテンポラリーはソロというより、つまりいかに演じるか、とかいうよりアルバムとしていかに創作するかということこそが問題なのでしょう。

 
 このことは、アルバムのジャケットなんかにも現れている感じがする。モダンのアルバムのジャケットはミュージシャンの顔写真が多かった気がする。イラストでもそれはミュージシャンの顔や楽器をデフォルメしたとかポップな感じが少なくなかった。

 
 でもコンテンポラリーのアルバムは、圧倒的にミュージシャンの写真とかよりアーティステックな風景写真とか、絵だとしても、イラストというより抽象画とか、芸術性を感じさせるような絵画が多く見受けられる。

 
 私が好きなレーベルのひとつであるECMのジャケットは、どんよりとした空とか、荒涼とした大地とか、そんな感じの写真が圧倒的に多い。そしてジャケットから受けるイメージと中身の音は、けっこう同調している。つまり少なくとも何を表現するのか、というテーマ性とか、録音後に出来た作品のイメージをジャケットを通じて伝えようとしている気がするのです。

 
 コンテンポラリー・ジャズは、モダンのように、いかに演じるか、というより全体として何を表現するかが、問われているのではないか。ミュージシャン達は、ソロ・プレイヤーとしての技術や力量よりも、アルバムとしていかなる世界が創造できたかが問われているのではないか。だからジャケットもけっこう重要だと思います。

 
 音楽である以上、そしてそれぞれが楽器を駆使するという点では、もちろんある程度はそのテクニックや力量は問われるだろうが、もっとも肝心なのは、それが具体的なモノであれ文学的なモノであれ、プレイヤー達は、どんな音世界を創り上げるのか、そのことに苦心しているに違いない。

 
 いかに演じるか、ではなく、いかに創作するか、これからのジャズに問われる本質のような気がしてならないのです。少なくとも私にとっては誰がもっとも巧いのかとか、凄いのかではなく、その音世界がいかに心を揺さぶるか、それがもっとも重要なのだと思えるのです。

si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.7 ~「日本人っぽくない」は褒め言葉か?~

 

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欲深く醜い希望と、悲しく美しい絶望。その倒錯を証明する手掛りが廃墟である。
by S.I.
 

 
 そういえば、ミュージシャン同士の会話とか、その演奏への褒め言葉としてよくこんなセリフを耳にしました。

 「日本人っぽくないね」とか「日本人離れしてるね」とか、そんなセリフが、ミュージャンへのある種の褒め言葉として使われていた気がします。今もそうかもしれない。

 
 これって、海外ではどうなんだろうと、思ったりします。例えば、フランス人同士やドイツ人同士でも、こんな会話があるのだろうか。

 
 素晴らしいジャズの演奏に対して「フランス人っぽくないね」とか「ドイツ人離れしてるね」とか云うだろうか・・・? どうも私にはそうは思えないのです。

 
 日本人っぽくないね、みたいなセリフは妙に海外の文化に対し必要以上にありがたがる日本人の特性のような気がしてならないのです。確かにジャズはアメリカが生んだ音楽であり文化ですが。

 
 ところで、こんな話を聞いたことがあります。日本が誇るアニメで、海外の興行収入、つまり版権収益で、第1位が「千と千尋の神隠し」で第3位が「もののけ姫」だそうです。(2位は確かピカチュウだったと思います)

 
 これにはちょっと驚きました。ジブリの作品で云うならば、例えばナウシカとかラピュタのほうが設定も西欧っぽくて、特に欧米人にはウケるのでは、と思うのですが。でも、海外でウケているのはきわめて日本っぽい色合いの作品なんですね。果たして欧米人に「八百万の神」とか「しし神」とか分かるのかな、なんて思うわけです。

 
 まァ、理解できるかどうかは別として、それは海外の人々にとってエキゾチズムを感じるのかもしれません。結局もっともウケているのは日本っぽいものなんですね。

 
 こんな話も聞いたことがあります。日本でもそこそこ有名なジャズピアニストがドイツのジャズフェッシバルで大変な喝采を浴びているということで、毎年のように呼ばれて参加しているようです。私としては、正直なところ「なんであのピアニストがヨーロッパでそんなにウケるのかな」とちょっと首をかしげてしまいました。

 
 でも、ある方の意見では、彼のピアノはけっこう日本人っぽくて、ちょっと悪口っぽく云うなら、演歌っぽい。その何というか「日本人特有のぎこちなさ」みたいな感じが返って欧米人にはエキゾチックな印象を与え、ウケているんじゃないかとのことです。

 
 その真偽はともかく、私としては、それはそれでいいじゃないか、と思います。その「日本人っぽさ」は、それこそ欧米人には真似の出来ないことでしょうから。

 
 さて、これは私にとってちょっとお恥ずかしい話なのですが正直に告白します。もう10年以上前の事なんですが、年末何気なく紅白歌合戦を観ていたら、由紀さおりさんの姉妹が登場して、童謡の「赤とんぼ」を唄い始めたのです。

 
 唄い始めてから30秒ほどで私は不覚にも涙が溢れてきました。唄い終わるころは涙で画面が見えなくなるくらいでした。自分でもあの時何が起きたのか良く分からなかったのです。それまで流れていた流行りの曲は半ば嘲笑しながら聴いていたのに・・・

 
 「私もやはり日本人なんだ」というセリフはともかく、あの時、私の心の中の琴線に触れたのだと思います。子供の頃耳にしていたシンプルなあのメロディが、ずっと長い間ジャズファンだった私の血の中にある何者かを呼び起こしたのかもしれません。由紀さおりさん姉妹の歌唱力も関係していたでしょうね。

 
 昨今はユーチューブのおかげで様々な類の音楽に手軽に触れることができます。日本民謡で検索すると、日本各地の民謡やらがたくさん視聴でき、日本には全国各地にこんに様々な民謡があるんだな、と驚かされます。

 
 私たちには、これほど豊富な民族性あふれる旋律やリズムがあるのですね。それが滅びる途上にあるのか、細々とではあるけど脈々と受け継がれているのはよくわかりません。

 
 日本の若いミュージシャンたちは、もっとこの日本古来の音楽に注目し、追求し、それを自分の表現に巧みに取り込むようにしたらどうだろうと私は思うのです。日本人はまだそれを完全には失っていないはずですから。

 
 ジャズはアメリカで生まれたのは間違いないのですが、昨今は世界中のミュージシャンたちがそれぞれの民族性を顕わにしたバラエティ豊かなサウンドを続々と生み出しているのです。

 
 近いうち、日本のミュージシャンの中から、我々日本人の魂を揺さぶるようなきわめて「日本的」なコンテンポラリー・ジャズが生まれてこないか、私はひそかに期待しています。

 
 そして、そのほうが実際には海外の人々に受け入れられ、より多くの人々に聴かれるようになるのではないかと思えてならないのです。

 
 いい加減、グローバル・スタンダードという名の、アメリカン・スタンダードとはそろそろ決別しようではありませんか。


si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.6 ~BluesとEuropean Contemporary~


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廃墟がなぜ美しいかを語ることは、

壮絶な最期を迎えた人の死の美学を語るのに等しい。
By S.I.



 昔読んだ本で、こんなジャズ論、音楽論がありました。

 
 ジャズを生んだのは、もちろんアメリカだけど、それはアメリカ大陸に渡った多くの移民、主にヨーロッパ人達が持ち込んだクラッシクや民謡、それと奴隷として連れて来られた黒人たちのブルースやリズムがぶつかり合い、融合し、様々な化学反応を起こして勃興した。

 
 それが、やがてはロックやポップスなどにもつながり、世界中にばら撒かれ、多くの国々の若者たちの心を捉えた。それは世界中で受け入れられるような構造になっていた。

 
 なぜならアメリカで生まれたこの音楽の源流は、もとはと言えばヨーロッパなど世界中の人々が持ち込んだ民謡などの美しいメロディやクラッシクの理論をベースに作られた。そこに古典にはない黒人達のリズムやブルースが加味された、とのこと。だから世界中の人々の琴線に触れるように出来ていたのだと。

 
 アメリカが世界の覇権国になったのは、世界一の経済力、軍事力を持ったことだけではない。アメリカからばら撒かれた音楽、映画、食文化など等が、世界中の若者たちの心を捕え、アメリカ文化に憧れを持つようになったからだ、と。ある意味、壮大な逆輸入かもしれまん。


 私が若い頃、ジャズピアノらしきを習い始めた頃、ブルース・スケールの習得は必須といことなっていました。もちろん今からモダンジャズを始める人達にとっても同様でしょう。

 
 3,6,7度を半音フラットさせるブルース・スケールは一種のモードとも云えるでしょうが、この音を散りばめることによって、よりジャズっぽい艶と響きとスゥイング感が生まる。また、ブルース形式(ブルース・コードで12小節x2)の演奏はモダン・ジャズを志す者にとては必修科目といえるでしょう。

 
 私が憧れたバップ時代のピアニストたちは、皆ブルース・フィーリング溢れるフレーズが光り輝いていました。

 
 ところで私がここ数年、心酔しているヨーロピアン・コンテンポラリーはどうでしょうか。むろんプレイするミュージシャンやアルバムによって差異はありますが、正直云って、あまりブルースは感じられない。ブルーノートを感じるフレーズは、それほど耳に入って来ない。

 
 先述したとうり、ブルース・スケールは一種のモード音階でしょうから、コンテンポラリーにもその要素は含まれているとは思うのですが、モダンに比べると多様なモードを駆使しするコンテンポラリーの演奏では、ブルーノートがさほど際立たない、のかもしれません。

 
 想像するに、ブルースはアメリカに無理やり連れて来られたアフリカ系の黒人達の悲しみや怒り、その他の感情が入り混じったものが根底にあるのでしょう。現在のアメリカ社会がそういった矛盾を完全に解決したとはとても思えませんが、少なくとも半世紀前よりは黒人達がブルースを唄う土壌は多少は清められたのでしょうか・・・?

 
 いずれにしろ、モダン全盛の頃のようなブルース感が中核を占めるような演奏は、相対的に少なくなったような気がしてなりません。そのかわり、独特のモードが、ブルースの代わりの役目を果たしているのかも。それは、ある時はブルースより深く、暗い「闇」のようにも聴こえることがあるのは、私だけでしょうか。

 
 考えてみると、どの民族や国民にとっても、その歴史の中で、深い哀しみの唄や、その表現、節回しがあるように思えてなりません。日本にだって民謡や雅楽のなかにきっとあるのだろうと思います。もしかしたら、演歌の節回しなんかに脈々と受け継がれているのかも。

 
 ヨーロピアン・コンテンポラリーの演者たちは、それぞれの民族性や血の中に流れる、それぞれ彼らなりのブルーノートを持ち、その演奏の中に散りばめているのかもしれません。

 
 きっと全ての民族が、独自のブルース・スケールを持っているのだと思う今日この頃です。

 
si50posted by S.I.
 

【コンテンポラリーな日々】No.5 ~モンクとコンテンポラリー・ジャズ~

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墟に共感することは人間の業(ごう)を肯定することに等しい。

だがそのことに気づいている人間は意外と少ない。
by S.I.


 
 若い頃、ジャズを聴き始め、ちょっとピアノをかじり始めた私にとってのアイドルや心の師匠は、レッド・ガーランドやウイントン・ケリー、ジョン・ルイス、それにビル・エヴァンス、など等。当時は教本も豊富ではなく、ピアノの先生や教室に通った経験も無いので、レコードを聴きながら耳コピで練習するのみでした。

 むろんセロニアス・モンクの存在は良く知っていたし、アルバムもたくさん買い求めたました。でも、モンクはアイドルではなかった、というか、ピアニストとして目指す存在ではなかった。モンクをコピーして演ってみると、それはあまりにモンクそのもの、モンク以外には聴こえないのです。モンク風に演奏することは、「影響」ではなく、「真似」になってしまう。それほどにモンクの個性は際立ち、異彩を放っている感じでした。

 アイドルではなかったけど、いつも「気になる」存在だったのを覚えています。目指す存在ではなくても、時々聴きたくなり、「どうも不可解な音だなァ」と思いつつも、また聴きたくなる。考えてみると、不思議で奇異な存在でした。

 あれから数十年が経ち、今ではすっかりヨーロピアン・コンテンポラリー派になったしまった私は、ふとコンテンポラリー・ジャズの発芽はいつごろからで、どんなミュージシャンによるものだったのか・・・そんなことを想っている最中、モンクに行き着いたのです。モンクの音楽こそは、バップの時代の中、コンテンポラリーの要素をふんだんに宿していたのでは、と思い始めたのです。

 
 コンテンポラリー・ジャズの演奏にある通常のコードやスケールからOUTする瞬間の美のような要素。モンクはあの時代に既に演っていたのではないか。さらにモンクはたくさんの名曲を残しているけれど、どの曲も、きわめてユニーク。その曲の中にところどころ不可解な音が数多くちりばめられている。

 G・ガーシュインやC・ポーターの曲のように全ての文脈がすっきり展開・解決するメロディとはきわめて違う異質な曲だ。でも、今にして思うと、これが実にカッコいい、というか、これはコンテンポラリーではないか。彼のピアノスタイルはきわめて素朴で、コンテンポラリーのピアニストのように流麗な印象とは程遠い。だから、ちょっと聴くとコンテンポラリーとは異質な感じだけど、その音使いは、まさにOUT OF SCALEではないのか。

 モンクはその風貌から、「ひとくせある人物」という印象、と云ったら失礼かもしれませんが、彼の音には、私がヨーロピアン・コンテンポラリーに感じる「闇」のようなものが含まれていたのかもしれません。多かれ少なかれ誰の心の中にも深い「闇」のようなものがあると思いますが、モンクはその心の闇をひた隠しにはせず、彼の書いた曲や自身の演奏にそのまま映し出したのでは、と思えてならないのです。

 と・・・そこまで考えて、私はハッと思いついたことがあります。

 
 エリントンはどうなんだ、と・・・。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンと共に、数多くの名曲を残しました。エリントンの曲も、あの当時としてはちょっと不可思議なユニークな音がかなり含まれていたように思います。コード進行も奇妙とも思えるような流れの曲もあります。ガーシュインやH・マンシーニが書くような曲とは、やはり一味も二味もう。


 いや待てよ・・・そういえばジョビンはどうなんだ。ボサノバの開祖のひとりA・C・ジョビンの曲のことも思い出しました。彼の曲もとても美しく、チャーミングで愛くるしいまでの名曲がたくさあります。が、その曲の殆どは、どこかにちょっと首をかしげるような音が含まれている。それはほんの半音だけずらしているような印象を受けてしまうのです。

 
 楽譜を見るとオヤッと思うのですが、実際に音を聴くと、これがなんとも云えないジョビン・ワールドを演出する。デザフィナードという彼の名曲は、「調子っぱずれ」という意味ですね。そういえば、あっちこっち半音ずれているような感じがするのだけど、それが実にお洒落でモダンな印象を振りまいている。やはり只者ではない。

 
 若い頃、ただ何気なくモダン・ジャズを聴き続けていた私はあまり気にもせず通り過ぎていたことが、こうして思い返すとそれぞれのミュージシャンたちが音に封じ込めたメッセージは計り知れない要素があったのかもしれません。

 70年代以降に台頭してきたコンテンポラリー・ジャズは、突如として発生したのではなく、モダンやスゥイングの時代から、ジャズという母体に受胎し、脈々と育まれ、やがてひとつのスタイルとして生み落とされたのかもしれない。

 もしかしたら、モンク、エリントン、ジョビン以外にも、多くのミュージシャンが気付かないところで、モダン全盛時代にもささやかな主張をしていたのかもしれない。

 
 コンテンポラリー・ジャズの本質へ迫る私の旅はまだ始まったばかりです・・・




si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.4 ~ヨーロッパの闇~


廃墟を愛することは、心地良い絶望である

by S.I.




 若い頃、買い求めたレコードやジャズ喫茶で聴きまくった音は、その殆どはアメリカからのモノだったでしょう。当時それほど意識はしなかったと思うけど、ジャズなんだからアメリカ発であるのはきわめて自然。


 むろんヨーロッパ録音のレコードなんかもあったけど、あくまでアメリカのミュージシャンがたまたまフランスや北欧でレコーディングしたものが多く、あとは邦人ジャズのモノ。

 しかし、コンテンポラリーを聴き始めたこの数年間、買いあさったCDをよくよく見返してみとそのほとんどがヨーロッパ発のモノであると気がつきました。レーベルもECMなどヨーロッパのモノが断然多い。

 別にアメリカの発信力が弱まったわけでもないでしょう。ですが、ここ数年私の心を揺さぶった音源の多くはヨーロッパ発のモノで、ミュージシャンもヨーロッパ人が殆どです。それもフランスやドイツ、イギリスのような主要国ばかりでなく、ポーランド人やベルギー人、また北欧の人達も多い。さらに、ヨーロッパが活動拠点だとしても、イスラム圏やアフリカ出身者のミュージシャンのCDも少なくない。


 これっていったい何なんだろう? 私のアンテナと波長は、アメリカを遮断し、すっかりヨーロッパ側の周波数にフィットしまったのか。


 ヨーロッパ発のモノをとりあえずヨーロピアン・コンテンポラリーと呼ぶことにしましょう。さて、このヨーロピアン・コンテンポラリーの全体の印象は、やはりどことなく「暗い」そして「影」というか「闇」のようなモノが音の源流に流れているような気がしてならないのです。


 この暗さは何なのか、そしてこの「影」のようなモノに魅かれるのはなぜなのか。


 ヨーロッパというと、この地球上では、いち早く文明が発展し、政治的にも民主化を実現させ、かつてはイギリスに代表されるように世界の海洋を制覇し、もっとも早く整然とした国家体制を作り上げた世界のお手本のような国々だと、心のどこかで思い込んでいたような気がします。


 しかし、しかしですよ。ヨーロッパの歴史を知れば知るほど、その「おぞましさ」に直面する。大部分が陸続きであるがゆえに侵略、虐殺、それもその規模において想像するだけで身も震えるほどの凄惨な史実がある。その多くは民族や、それに伴う宗教問題があり、故に壮絶な差別も厳然と存在していた。しかも、近代化以後、その大部分は解決したのかと云えば、必ずしもそうではない。今も尚、様々な問題と闇をかかえヨーロッパ社会に依然として暗い影を落としている。

 これは私の強引な推論に基ずくものですけれど、ヨーロピアン・コンテンポラリーに反映される「暗さ」と「影」のようなものの正体は、実はこのヨーロッパの人々が心のどこかにトラウマのように抱える「積年の恨みと、懺悔」のような、もっと言えば、人間そのものに対する「懐疑と絶望」のようなものではないかと思ってしまうのです。新興国家アメリカでも様々な問題もあるけれども、はっきり云って「ヨーロッパの歴史は一筋縄では行かない」と思います。いえ、アメリカが根底に抱える問題さえ、元をただせばヨーロッパが持ち込んだものではないでしょうか。


 つい最近までアメリカ発のジャズばかり聴いていた私が、今ではすっかりヨーロピアン・コンテンポラリー派になってしまったのですが、しかし良く考えてみると、こんな音楽を通じ、私がずっと以前から漠然と感じていたヨーロッパへの印象が、見事に一致したような気がしてなりません。


 冒頭に私の廃墟迷文を書かせてもらいました。

 「廃墟を愛することは、心地良い絶望である」と。


 廃墟のようにこれまで私が若い頃から愛し、親しんできたものを、この「廃墟」に当てはめると、不思議としっくりするような気がしてならないのです。


 「カフカ文学を愛することは、心地良い絶望である」

 「Deathtopiaの世界感に共感を抱くのは、心地良い絶望である」

 「エドガー・A・ポー作品に親しむのは、心地よい絶望である」

 ・・・など等。

 そして、

 「ヨーロピアン・コンテンポラリーを聴くことは、心地良い絶望である」

 いかがでしょう・・・?

 おそらく私にはヨーロピアン・コンテンポラリーにのめり込む素地が既にあったのかもしれません。


si50posted by S.I.


 

【コンテンポラリーな日々】No.3 ~音楽の時間旅行~


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廃墟になることを想定して設計する建築家がいるとすれば、彼は奇人ではなく、歴史家である。
by S.I.


 
 ある大学のジャズ研の部員であるベース弾きの学生さんから聞いた話だけど、彼の属するジャズ研の部員は約60名ほど在籍があるとのこと。その数にちょっと驚いたけど、さらに色々聞くと、どこの大学でもわりとジャズ研は人気らしく、部員数も豊富らしい。

 ジャズファンの私としては、若い連中もジャズ好きが少なくないんだな、と嬉しいようなホッとしたような気分になる。少なくとも今のところは、必ずしも滅び行く音楽ではなさそうだ。

 ただ、さらにその実態を聞くと、これが面白い。50名以上の部員は、それぞれの「派」に分かれているらしい。

 例えばスウィングとかモダンばかりやっているグループ。これはいわばオールドジャズ派かな。また、ビッグバンド中心の連中もいるらしい。さらにエレクトリック楽器でもってフュージョンっぽい音楽を演っているグループもあるとのこと。さらにパソコンとかDTMとか駆使してクラブというかヒップホップというかハウスというか(良く分からないけど)、そんな最先端っぽいサウンドに取り組んでいる一派もいるらしい。

 考えてみると、私の世代またはそれ以上の人間は、だいたいジャズ史の時系列とともに聴いてきた。はじめはスウインやバップ。続いてもっと鋭い感じのモード・ジャズ。時代とともにジャズは理論的にはけっこう複雑になって、やがてフュージョンなんかが台頭してくる。その時々で時代の変遷のような感じでジャズを捉え、聴いてきた。

 だけど、現在の若者たちは、すでに100年間近いジャズ史と一度にまともに直面することになる。その情報を得る様々なツールもある。その中から、どの時代のジャズをチョイスするか、それは我々の世代とは決定的に違う。

 考えてみれば、スウィングやモダンのようなちょっと古いタイプのジャズも若い連中にとっては、もしかしたら、最近流行っている最先端の音より、新鮮で「新しい」のかもしれない。彼らは決して時系列でジャズと接してはいないはずだ。どこからでも聴き始めることも出る。


 我々は、初めてラジカセなるパーソナルな再生機を手に入れた最初の世代かもしれないが、今は比べ物にならないほどたくさんのツールがある。マイルスやコルトレーンなどの姿も演奏も、YOU-TUBEで即座に観て、聴くことができるわけだ。しかもスマホでいつでもどこでも体感できる。

 少々大げさかもしれないけど、我々はタイムマシンというか、タイムリープ・マシンを手に入れたも同然かもしれない。今から100年後、300年後の人も、ビル・エバンスやキース・ジャレットの姿や演奏も体感できる。

 現代で云えば、バッハやモーツアルトの演奏も聴くことが出来るに等しい。これって、まさに革新的な出来事だと思うのです。

 ところで、例のベーシストの学生さんから、文化祭の時のジャズ研の映像を見せてもらったことがある。ますはバンジョーなんかも入ってディキシーとかスウイング。いい感じだ。次にビッグバンド。カウント・ベイシーの曲だけどツボはおさえてる。次に明らかにマイルスとコルレーンを意識した感じのクィンテット。微笑ましい。次はフェンダーのエレピとエフェクトかけたギターとかのフュージョンぽいサウンド。ちょっとぎこちないけど、悪くない。その次はパソコンでもってループしたリズムにシンセっぽい音をかぶせ、さらに生楽器でインプロビゼーション。スタイリッシュさは出てる感じだ。

 私はわずか70分ほどの映像と演奏を聴きながら、まるでタイムマシンに乗って100年近い音楽旅行をした気分だった。

 これを演奏しているのはみんな同時代の若者たち。

 もしかしたら、彼らの演奏の総称を「コンテンポラリー・ジャズ」と呼ぶのかもしれない・・・?。
 


【コンテンポラリーな日々】No.2~70年代以降こそがJazzの宝庫?~


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廃墟から微かに聞こえる静かなる調べは、
やがて滅びるであろう人類への鎮魂歌(レクイエム)。
by S.I.



 Foxholeで飲んでいるとき、私はマスターに「ジャズの歴史は1960年代初頭で終わりだよね」と、言い放ったことがあります。それに対しマスターはフ~ムと下を向き、独り言のようにこう呟きました。
 「70年代以降こそ、ジャズの宝庫だと思うのですが・・・」

 帰宅してHelge Lienのピアノを聴きながら、さっきのマスターの言葉が喉に突き刺さったように響いていました。長年の持論が、いとも簡単に崩れ去って行く感じがしました。

 
 40年代から50年代にかけジャズはスウィングからバップへと発展し、大きく花開いた。
アメリカの黒人を中心に、もっともジャズが輝いていたのがこの時代。50年代末にマイルスがモードの手法で演奏をはじめ、60年代は大きな変革の時期でもあったのでしょう。
私はいわばこの年代がモダンジャズの黄金期であると信じていました。

 でも私はそれ以後はジャズの根本的な進展は無いように感じられました。晩年のマイルスもいたずらに混迷するのみで、そこに新たなる輝きは無い・・・と思わざるを得なかった。

 それ以後、クロスオーバージャズなる言葉が出てきて、後のフュージョンとなるのですが、私には、やたら電子楽器とかロックのリズムとか取り入れうわべのファッションを飾っているだけの音楽のように感じられ、確かにスタイリッシュな印象はあるけど、本質的には中身の薄い音楽のように思えてならなかった。

 自然と私は回顧的になり、50年代あたりのジャズこそがジャズのメインストリームであり、これこそがジャズの本質であると思い込んでいました。

 その思い込みは、ある意味では正しかったのかもしれません。60年代には様々な音楽的アプローチや理論は出尽くしていたとも考えられなくはない。しかし、あらゆる本質的な理論が出尽くした後に、新しい時代のミュージシャンたちが始めた模索から目を逸らすことになってしまったのかもしれません。

 その試みとチャレンジは必ずしも一定方向ではなかったような感じがします。それぞれがそれぞれの方向で、四方八方に向かって散らばり、様々なタイプのサウンドが生まれていったのでしょう。その散らばり方があまりに拡散したため、ジャズのメインストリームらしき発展は終わったのだと錯覚してしまったのかもしれません。

 もしかしたら、70年代以後、ようやく新しい世代のジャズメンたちは古き呪縛から解き放たれ、先人たちが残してくれた理論も身につけ、自由でまったく新しいサウンドを創れる環境と精神を手に入れたのかもしれません。気がついてみたら、確かにこれまで体験したことのない音世界が豊富に存在していますから。
 

 「70年代以降こそがジャズの宝庫である・・・」

 それは、ジャズを心から愛し、ジャズの現在と未来を信じようとする言葉のように思えてなりません。
 今の私は、そう信じてます。


si50posted by S.I.

【コンテンポラリーな日々】No.1~悦楽と絶望のジャズライフ~


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実は私、なにを隠そう廃墟マニアなのです。
by S.I.



 「四十にして惑わず」との格言がありますが、私は50才代後半になり、混迷の日々送ることになりました。と云っても、リストラされたわけではありません。あくまで趣味の分野ではあるのですが、それなりに深刻な問題です。

 「五十にして天命を知る」どころか、ますます迷宮の迷い道の路上で、途方にくれている日々です。高校生の頃からジャズを聴き始めました。私の世代では、廻りはカーペンターズやらレッドツエッペリン、むろんビートルズやらが流行ってましたね。つまりは欧米のポップカルチャーが怒涛の勢いで押し寄せていた頃でしょう。そういえば日本のフォーク・ソングもありました。

 孤高の道を歩むつもりもなかったけど、なぜか私の胸にはもっともモダン・ジャズが響いたのです。ピアノも少しかじっていた私にとってのアイドルは、レッド・ガーランドやウイントン・ケリー、それからビル・エバンスやジョン・ルイス。ですからモダン時代の洗礼を受けと云っていいのでしょう。

 あれから40年以上、私はモダンジャズ・ファンでした。むろん70年代あたりからチック・コリアやH.ハンコック、それからキース・ジャレットとか当時新主流派なんて呼ばれる新しい感覚のジャズプレイヤーが続々と登場したのも良く知ってますし、フュージョンとかアシッド・ジャズなんてものが出てきたのも認識はしていました。フリージャズの存在も知っていたのは云うまでもありません。

 ただ、私はあまりそちら側に強い興味を感じなかった、というか意識的に避けてきたのかもしれません。あくまで自分はモダンジャズのファンであり、それこそがジャズ・ファンとしての王道である、なんて信じ込みたかったのでしょう。

 ですが、その信念らしき思い込みがもろくも崩れたのは、ほんの2年ほど前のこと。それはある店との出会いがきっかけでした。

 Foxholeという名のJazzのお店が吉祥寺にできたのです。不運(?)にも、私はこのお店にふらりと入りました。中に入ると、私にとってはなじみの無いサウンドが鳴り響いていました。およそ私の知るジャズとは縁遠いと思われる音楽、それはどうやらコンテンポラリー・ジャズと呼ぶらしい。おそらく私にとってお気に入りの店にはならないだろうと思っていたこのFoxholeになぜか時々足を運ぶようになりました。それはマスターの気さくな人柄に惹かれたのかもしれませんが、そのうち大きなスピーカーから流れてくる異質なサウンドが、徐々に自然と耳から入り胸に響くようになってきたのです。

 そのうち、Foxholeに集まる常連客たちと親しくなり、このような類の音楽のファンと初めて交流が生まれたのです。ほとんどは私より若い人たちで、中には私の息子と言ってもよいくらいの若者たちからコンテンポラリー・ジャズの教えを請うことになり、お勧めのアルバムも続々と入手しました。

 不思議な出会いではあったかもしれませんが、私のジャズ・ライフは大いなる混迷の日々を迎えることになったのです。それは、これまで気がつかなかった美を知った悦楽と、信念がもろくも崩れた絶望。

 ですが、そんな人たちとの出会いこそが、このブログをはじめるきっかけでもあったのです。モダンジャズ・ファンのまま死んで行くべきだったのかもしれませんが、実は本当は私がずっとずっと以前から心の底で求めていたのはこんな音だったのかもしれないと、思えるようになったのです。

 いささか遅きに失したかもしれませんが、私の悦楽と絶望のコンテンポラリージャズ・ライフが始まったのです。モダンジャズではあり得ないOUT OF RULEのサウンドに、なぜこれほど美しさを感じるのか、その理由を探求する旅はまだ幕を開けたばかりなのです。

 それは人間の意識の奥底に潜む不可思議な魍魎を紐解いて行くいばらの道なのかもしれません。


 
"Your Eyes" from ALBUM“CelestialCircle” (2010)
MarilynMazur(percussion) John Taylor (piano) Anders Jormin (bass) Josefine Cronholm (voice)

si50posted by S.I. 

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【吉祥寺JazzSyndicate】
吉祥寺ジャズシンジケートは、東京、吉祥寺の某Barに集まるJazzファンのゆるーいコミュニティです。
コンテンポラリー ジャズを中心に、音楽、映画、アート、アニメ、カフェ、バー、面白グッズ、などなど、わがままに、気まぐれに、無責任に発信します。

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