ロックの中でも、結局これが一番好きなアルバムの一つ。
※近年のライブから。
posted by H.A.
だがそのことに気づいている人間は意外と少ない。
by S.I.
若い頃、ジャズを聴き始め、ちょっとピアノをかじり始めた私にとってのアイドルや心の師匠は、レッド・ガーランドやウイントン・ケリー、ジョン・ルイス、それにビル・エヴァンス、など等。当時は教本も豊富ではなく、ピアノの先生や教室に通った経験も無いので、レコードを聴きながら耳コピで練習するのみでした。
むろんセロニアス・モンクの存在は良く知っていたし、アルバムもたくさん買い求めたました。でも、モンクはアイドルではなかった、というか、ピアニストとして目指す存在ではなかった。モンクをコピーして演ってみると、それはあまりにモンクそのもの、モンク以外には聴こえないのです。モンク風に演奏することは、「影響」ではなく、「真似」になってしまう。それほどにモンクの個性は際立ち、異彩を放っている感じでした。
アイドルではなかったけど、いつも「気になる」存在だったのを覚えています。目指す存在ではなくても、時々聴きたくなり、「どうも不可解な音だなァ」と思いつつも、また聴きたくなる。考えてみると、不思議で奇異な存在でした。
あれから数十年が経ち、今ではすっかりヨーロピアン・コンテンポラリー派になったしまった私は、ふとコンテンポラリー・ジャズの発芽はいつごろからで、どんなミュージシャンによるものだったのか・・・そんなことを想っている最中、モンクに行き着いたのです。モンクの音楽こそは、バップの時代の中、コンテンポラリーの要素をふんだんに宿していたのでは、と思い始めたのです。
コンテンポラリー・ジャズの演奏にある通常のコードやスケールからOUTする瞬間の美のような要素。モンクはあの時代に既に演っていたのではないか。さらにモンクはたくさんの名曲を残しているけれど、どの曲も、きわめてユニーク。その曲の中にところどころ不可解な音が数多くちりばめられている。
G・ガーシュインやC・ポーターの曲のように全ての文脈がすっきり展開・解決するメロディとはきわめて違う異質な曲だ。でも、今にして思うと、これが実にカッコいい、というか、これはコンテンポラリーではないか。彼のピアノスタイルはきわめて素朴で、コンテンポラリーのピアニストのように流麗な印象とは程遠い。だから、ちょっと聴くとコンテンポラリーとは異質な感じだけど、その音使いは、まさにOUT OF SCALEではないのか。
モンクはその風貌から、「ひとくせある人物」という印象、と云ったら失礼かもしれませんが、彼の音には、私がヨーロピアン・コンテンポラリーに感じる「闇」のようなものが含まれていたのかもしれません。多かれ少なかれ誰の心の中にも深い「闇」のようなものがあると思いますが、モンクはその心の闇をひた隠しにはせず、彼の書いた曲や自身の演奏にそのまま映し出したのでは、と思えてならないのです。
と・・・そこまで考えて、私はハッと思いついたことがあります。
エリントンはどうなんだ、と・・・。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンと共に、数多くの名曲を残しました。エリントンの曲も、あの当時としてはちょっと不可思議なユニークな音がかなり含まれていたように思います。コード進行も奇妙とも思えるような流れの曲もあります。ガーシュインやH・マンシーニが書くような曲とは、やはり一味も二味もう。
いや待てよ・・・そういえばジョビンはどうなんだ。ボサノバの開祖のひとりA・C・ジョビンの曲のことも思い出しました。彼の曲もとても美しく、チャーミングで愛くるしいまでの名曲がたくさあります。が、その曲の殆どは、どこかにちょっと首をかしげるような音が含まれている。それはほんの半音だけずらしているような印象を受けてしまうのです。
楽譜を見るとオヤッと思うのですが、実際に音を聴くと、これがなんとも云えないジョビン・ワールドを演出する。デザフィナードという彼の名曲は、「調子っぱずれ」という意味ですね。そういえば、あっちこっち半音ずれているような感じがするのだけど、それが実にお洒落でモダンな印象を振りまいている。やはり只者ではない。
若い頃、ただ何気なくモダン・ジャズを聴き続けていた私はあまり気にもせず通り過ぎていたことが、こうして思い返すとそれぞれのミュージシャンたちが音に封じ込めたメッセージは計り知れない要素があったのかもしれません。
70年代以降に台頭してきたコンテンポラリー・ジャズは、突如として発生したのではなく、モダンやスゥイングの時代から、ジャズという母体に受胎し、脈々と育まれ、やがてひとつのスタイルとして生み落とされたのかもしれない。
もしかしたら、モンク、エリントン、ジョビン以外にも、多くのミュージシャンが気付かないところで、モダン全盛時代にもささやかな主張をしていたのかもしれない。
コンテンポラリー・ジャズの本質へ迫る私の旅はまだ始まったばかりです・・・
by S.I.
若い頃、買い求めたレコードやジャズ喫茶で聴きまくった音は、その殆どはアメリカからのモノだったでしょう。当時それほど意識はしなかったと思うけど、ジャズなんだからアメリカ発であるのはきわめて自然。
むろんヨーロッパ録音のレコードなんかもあったけど、あくまでアメリカのミュージシャンがたまたまフランスや北欧でレコーディングしたものが多く、あとは邦人ジャズのモノ。
しかし、コンテンポラリーを聴き始めたこの数年間、買いあさったCDをよくよく見返してみとそのほとんどがヨーロッパ発のモノであると気がつきました。レーベルもECMなどヨーロッパのモノが断然多い。
別にアメリカの発信力が弱まったわけでもないでしょう。ですが、ここ数年私の心を揺さぶった音源の多くはヨーロッパ発のモノで、ミュージシャンもヨーロッパ人が殆どです。それもフランスやドイツ、イギリスのような主要国ばかりでなく、ポーランド人やベルギー人、また北欧の人達も多い。さらに、ヨーロッパが活動拠点だとしても、イスラム圏やアフリカ出身者のミュージシャンのCDも少なくない。
これっていったい何なんだろう? 私のアンテナと波長は、アメリカを遮断し、すっかりヨーロッパ側の周波数にフィットしまったのか。
ヨーロッパ発のモノをとりあえずヨーロピアン・コンテンポラリーと呼ぶことにしましょう。さて、このヨーロピアン・コンテンポラリーの全体の印象は、やはりどことなく「暗い」そして「影」というか「闇」のようなモノが音の源流に流れているような気がしてならないのです。
この暗さは何なのか、そしてこの「影」のようなモノに魅かれるのはなぜなのか。
ヨーロッパというと、この地球上では、いち早く文明が発展し、政治的にも民主化を実現させ、かつてはイギリスに代表されるように世界の海洋を制覇し、もっとも早く整然とした国家体制を作り上げた世界のお手本のような国々だと、心のどこかで思い込んでいたような気がします。
しかし、しかしですよ。ヨーロッパの歴史を知れば知るほど、その「おぞましさ」に直面する。大部分が陸続きであるがゆえに侵略、虐殺、それもその規模において想像するだけで身も震えるほどの凄惨な史実がある。その多くは民族や、それに伴う宗教問題があり、故に壮絶な差別も厳然と存在していた。しかも、近代化以後、その大部分は解決したのかと云えば、必ずしもそうではない。今も尚、様々な問題と闇をかかえヨーロッパ社会に依然として暗い影を落としている。
これは私の強引な推論に基ずくものですけれど、ヨーロピアン・コンテンポラリーに反映される「暗さ」と「影」のようなものの正体は、実はこのヨーロッパの人々が心のどこかにトラウマのように抱える「積年の恨みと、懺悔」のような、もっと言えば、人間そのものに対する「懐疑と絶望」のようなものではないかと思ってしまうのです。新興国家アメリカでも様々な問題もあるけれども、はっきり云って「ヨーロッパの歴史は一筋縄では行かない」と思います。いえ、アメリカが根底に抱える問題さえ、元をただせばヨーロッパが持ち込んだものではないでしょうか。
つい最近までアメリカ発のジャズばかり聴いていた私が、今ではすっかりヨーロピアン・コンテンポラリー派になってしまったのですが、しかし良く考えてみると、こんな音楽を通じ、私がずっと以前から漠然と感じていたヨーロッパへの印象が、見事に一致したような気がしてなりません。
冒頭に私の廃墟迷文を書かせてもらいました。
「廃墟を愛することは、心地良い絶望である」と。
廃墟のようにこれまで私が若い頃から愛し、親しんできたものを、この「廃墟」に当てはめると、不思議としっくりするような気がしてならないのです。
「カフカ文学を愛することは、心地良い絶望である」
「Deathtopiaの世界感に共感を抱くのは、心地良い絶望である」
「エドガー・A・ポー作品に親しむのは、心地よい絶望である」
・・・など等。
そして、
「ヨーロピアン・コンテンポラリーを聴くことは、心地良い絶望である」
いかがでしょう・・・?
おそらく私にはヨーロピアン・コンテンポラリーにのめり込む素地が既にあったのかもしれません。
posted by S.I.
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