廃墟を愛することは、心地良い絶望である

by S.I.




 若い頃、買い求めたレコードやジャズ喫茶で聴きまくった音は、その殆どはアメリカからのモノだったでしょう。当時それほど意識はしなかったと思うけど、ジャズなんだからアメリカ発であるのはきわめて自然。


 むろんヨーロッパ録音のレコードなんかもあったけど、あくまでアメリカのミュージシャンがたまたまフランスや北欧でレコーディングしたものが多く、あとは邦人ジャズのモノ。

 しかし、コンテンポラリーを聴き始めたこの数年間、買いあさったCDをよくよく見返してみとそのほとんどがヨーロッパ発のモノであると気がつきました。レーベルもECMなどヨーロッパのモノが断然多い。

 別にアメリカの発信力が弱まったわけでもないでしょう。ですが、ここ数年私の心を揺さぶった音源の多くはヨーロッパ発のモノで、ミュージシャンもヨーロッパ人が殆どです。それもフランスやドイツ、イギリスのような主要国ばかりでなく、ポーランド人やベルギー人、また北欧の人達も多い。さらに、ヨーロッパが活動拠点だとしても、イスラム圏やアフリカ出身者のミュージシャンのCDも少なくない。


 これっていったい何なんだろう? 私のアンテナと波長は、アメリカを遮断し、すっかりヨーロッパ側の周波数にフィットしまったのか。


 ヨーロッパ発のモノをとりあえずヨーロピアン・コンテンポラリーと呼ぶことにしましょう。さて、このヨーロピアン・コンテンポラリーの全体の印象は、やはりどことなく「暗い」そして「影」というか「闇」のようなモノが音の源流に流れているような気がしてならないのです。


 この暗さは何なのか、そしてこの「影」のようなモノに魅かれるのはなぜなのか。


 ヨーロッパというと、この地球上では、いち早く文明が発展し、政治的にも民主化を実現させ、かつてはイギリスに代表されるように世界の海洋を制覇し、もっとも早く整然とした国家体制を作り上げた世界のお手本のような国々だと、心のどこかで思い込んでいたような気がします。


 しかし、しかしですよ。ヨーロッパの歴史を知れば知るほど、その「おぞましさ」に直面する。大部分が陸続きであるがゆえに侵略、虐殺、それもその規模において想像するだけで身も震えるほどの凄惨な史実がある。その多くは民族や、それに伴う宗教問題があり、故に壮絶な差別も厳然と存在していた。しかも、近代化以後、その大部分は解決したのかと云えば、必ずしもそうではない。今も尚、様々な問題と闇をかかえヨーロッパ社会に依然として暗い影を落としている。

 これは私の強引な推論に基ずくものですけれど、ヨーロピアン・コンテンポラリーに反映される「暗さ」と「影」のようなものの正体は、実はこのヨーロッパの人々が心のどこかにトラウマのように抱える「積年の恨みと、懺悔」のような、もっと言えば、人間そのものに対する「懐疑と絶望」のようなものではないかと思ってしまうのです。新興国家アメリカでも様々な問題もあるけれども、はっきり云って「ヨーロッパの歴史は一筋縄では行かない」と思います。いえ、アメリカが根底に抱える問題さえ、元をただせばヨーロッパが持ち込んだものではないでしょうか。


 つい最近までアメリカ発のジャズばかり聴いていた私が、今ではすっかりヨーロピアン・コンテンポラリー派になってしまったのですが、しかし良く考えてみると、こんな音楽を通じ、私がずっと以前から漠然と感じていたヨーロッパへの印象が、見事に一致したような気がしてなりません。


 冒頭に私の廃墟迷文を書かせてもらいました。

 「廃墟を愛することは、心地良い絶望である」と。


 廃墟のようにこれまで私が若い頃から愛し、親しんできたものを、この「廃墟」に当てはめると、不思議としっくりするような気がしてならないのです。


 「カフカ文学を愛することは、心地良い絶望である」

 「Deathtopiaの世界感に共感を抱くのは、心地良い絶望である」

 「エドガー・A・ポー作品に親しむのは、心地よい絶望である」

 ・・・など等。

 そして、

 「ヨーロピアン・コンテンポラリーを聴くことは、心地良い絶望である」

 いかがでしょう・・・?

 おそらく私にはヨーロピアン・コンテンポラリーにのめり込む素地が既にあったのかもしれません。


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